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2011年12月31日 (土)

豊橋市へ

 一泊二日の豊橋の旅 帰りの新幹線の時間に三時間ほどの余裕ができたので 駅前から市電に乗り 豊橋市美術館にでかけた。
遺跡が語る豊橋の歴史 (旧石器時代 縄文時代 弥生時代 古墳時代 ) 郷土画人展(江戸期・・・明治期)ー石峰・文笠・圭岳・拳山

 三河地方に輩出した画人達は、多くは”崋山" ”椿山”という偉大な画家の影響の中で、書画から絵画へと、”書画会”を通して逞しく生き続けてきた。

 中国明代末に確立した絵画に、”南画(文人画)”が、十八世紀初頭から将来され、次第に日本的なものになっていった。鎖国の日本へ中国の画譜、画論が大量に輸入され、それらを日本の画人が模倣したことから、その画く精神は中国の文人画と同じゅうするものの、お抱え絵師〈狩野派)などとはことなり、職業画家的な売画活動も行なわれていた。

 幕末の文人画家・洋学者・渡辺崋山の 36歳に記した"日省課目”(文政11年〉の中で、「困乏、飢に及ぶ。僅かに画を以って免る。故に一日画を作らざれば、一日の窮を増す」と記している。 

 また 崋山39歳の紀行「毛武遊記」〈天保2年)に 「岡田氏〈立助・東塢とうこう)、美濃へ浪遊の時、書画の集を催したるに、至るものなくて、そくはくの金を費(や)し、ひそかに美濃をにげさりし事あり」 とあって、美濃国で書画会をしたが、参会するものがすくなく、成果があがらず、逃げ出したと言う記事がある。

 江戸時代中期以降、各藩のお抱え絵師ではない、都市の町絵師たちは、個人の邸宅や料理屋などに書画会を設けることができるようになり、そこでは商品として個人作品の展示頒布がおこなわれ、ヨーロッパのようなギルド〈画家組合)の主宰ではないけれども、会主が存在していて、いわゆる展示会〈展覧会)が萌芽が生まれたのである。

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2011年12月27日 (火)

平成中村座

 ”江戸の芝居小屋”にタイムスリップしたやうな”平成中村座” 。昨日 浅草・墨田公園の一角に江戸時代の芝居小屋を現代に復活して 江戸の芝居見物気分を堪能してきた。

 出し物は ”菅原伝授手習鏡” の "車引" ”賀の祝" ”寺子屋” であった。

 九州・大宰府の天神様は有名だが 菅原道真を祭る神社である。日本各地に天神様はあり 所沢にもあって 先日 保育所の地鎮祭は 地元である北野天神の神主さんにお願いした。 

 菅原道真は 学問に優れ、後醍醐天皇の時、55歳で右大臣に抜擢される。異例の出世が藤原氏や学閥の反感を買い、藤原時平の讒言(ざんげん)により失脚、九州の大宰府へ左遷される。903年〈延喜三年〉二月25日 失意の内に生涯を終える。

 道真が大宰府で死んだころより、京都では天変地異が続く。藤原時平の急死、疫病の蔓延、日照り、落雷、ついには、醍醐天皇をも地獄に落とす。これらは、この世に怨念を残して死んだ道真の怨霊のたたりとされ、その怒りを静めるために、神として京都の北野天満宮を建て 神として祀られる。

 時代が進み、"道真=天神様=学問の神様” と変化して、江戸時代には 庶民のあいだに天神様信仰と広まる。

2011年12月 6日 (火)

伊勢志摩のたび

伊勢志摩のたび

伊勢志摩の旅

伊勢志摩の旅

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